2007年の福田康夫政権誕生では、安倍首相(第一次政権)の辞意表明翌日に日本テレビ本社に“盟友”の氏家斉一郎氏(元日本テレビ会長、故人)とともに森喜朗氏、青木幹雄氏、山崎拓氏という当時の自民党重鎮を呼びつけ、「新・五人組」の談合で福田後継を決定した。
栃木県
流失後の神橋跡(1902年)
死者・行方不明者219名、家屋の全壊・流失約8,200戸、足尾で315ミリの雨量を記録した[5]。渡良瀬川が洪水となり、足尾での被害が大きかったことが後にこの台風の名称となった。足尾町内では神子内尋常小学校が流出するなどした[6]。
また、日光中宮祠では土石流が発生。中禅寺湖に流れ込んだ土砂が3mの高波を起こし、旅館などで被害者を出した[7]。この波は華厳滝を越えて大谷川に流れ込み、神橋、大谷橋が流失。憾満ヶ淵の「並び地蔵」も流失した[8]。裏見滝はこの台風がもとで姿を変えたという[7]。
現在、栃木県立真岡高等学校にある登録有形文化財「真岡高校記念館」は、この台風で損壊した校舎を翌年建て直したものである[7]。
茨城県
死者・行方不明者118名、家屋の全壊・流出20,164戸を記録した[7]。
このグラフから、江戸時代の大雨、強風発生に関して次のような特徴が読み取れる。
①江戸時代を通して、年代による変動はあるが、全体として大雨や強風の発生頻度が増加傾向にある。
②大雨と強風の発生頻度には、数十年の周期的変動が認められるが、そのピークは、江戸時代の三大飢饉と呼ばれる「享保の飢饉」(1720年代)、「天明の飢饉」(1780年代)、「天保の飢饉」(1830年代)に対応している。
③大雨が発生しやすい年代には、強風も発生しやすい。これはある意味で当然のことであるが、大雨や強風をもたらす原因の多くが、雷雨や発達した低気圧、台風などにあることを示唆している。
④一般に、江戸時代の大飢饉は、冷夏による凶作が引き金となって引き起こされると言われてきたが、夏季の低温や日照不足に加えて、大雨や強風などの発生頻度が増加することで飢饉を長引かせたとも言えよう。
一方、もう一つの深層水である北大西洋高緯度(グリーンランド沖)に端を発する北太平洋深層水の形成がこの時期活発になっており、南北両半球における深層水形成が同調していた可能性があることが分かった。最終退氷期の南北両半球における深層水形成の強弱と連動した温暖化、寒冷化のモードは、逆位相の関係にあることが分かっているが、完新世においては、それら逆位相の関係が成立せず、同位相で変動している可能性が認められた。このことから研究グループでは、今回の成果は、完新世においては逆位相と異なる新たなメカニズムの存在の可能性を提唱するものであることから、今後の研究の進展を期待している。【国立環境研究所】