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【マターリ】情報7daysニュースキャスター
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0001渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/30(土) 21:36:38.12ID:CxWUHrub0
みたに
0460渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 04:12:28.45ID:0+Ki2oSx
 日本の縄文時代は完新世最温暖期にあたり、気温は現在より2°Cほど高く温暖で湿潤な気候でした。縄文人が好んで食べた貝類の殻を捨てた貝塚が内陸部で見つかっていることから、海面は今より3-5メートルも高く、縄文海進と呼ばれるように海岸線は内陸部に大きく食い込んでいました。また縄文人は「トウカイハマギギ」という熱帯魚の一種を食料にしていたことが、岡山県の彦崎貝塚や佐賀県の東名貝塚から骨が大量に発見されたことで明らかになりました。現在は寒冷な東北地方にある三内丸山遺跡で高度な縄文文化が長期間維持されたのも、当時の気候が今よりうんと温暖だったことが根本的な要因です。

https://ieei.or.jp/2020/10/expl201012/
https://ieei.or.jp/wp-content/uploads/2020/10/expl201012_01.png
https://himawari.5ch.net/test/read.cgi/liventv/1636761870/420-
0461渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 04:31:31.66ID:0+Ki2oSx
ゲリラ豪雨でマンホールから水が吹き出すワケ
https://weathernews.jp/s/topics/201809/180245/amp.html
汚水管に雨水が流れ込まないようにしましょう
https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/kurashi/sudogesuido/gesuido/okyakusamamuke/haisuisetubi/gesuikanrika20190725.html
油脂の塊「ファットバーグ」がロンドンの下水管をつまらせる(微グロ)
https://www.gizmodo.jp/amp/2017/10/a-colossal-fatberg-clogging-londons-sewer.html
大量の油で下水管はこの様な状態になっています。
https://www.water.city.nagoya.jp/file/1230.jpg
https://www.water.city.nagoya.jp/category/gokyouryoku/1446.html
都市型水害はなぜ起きるのか
都市水害の原因は雨水のラッシュアワー
https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/bousai/saigai/1999/html/d.htm
0462渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 04:32:17.90ID:0+Ki2oSx
1つは洪水という自然現象、もう1つは水害という社会現象についてである。都市水害と称されるからには、洪水にどのような変化が認められるのか、そして水害の内容がどんな変貌を見せているのか、ということになる。洪水でいえば、量より質、つまり洪水の期間に流れる全量の変化より、ピーク時の流量だけが極端に大きくなってくることである。水害ということでいえば、従来は水害にならなかった洪水氾濫でも水害になってしまうということである。 都市が造られると、それに伴って道路が整備され、その道路には側溝が造られる。当然、住宅には雨どいが作られ、できるだけ早く川に雨水を流そうとするようになる。そのため降る雨の量が昔と変わらなくても、降った雨が川に到達する時間は飛躍的に短縮されることになる。
0463渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 04:32:27.16ID:0+Ki2oSx
また、水田であれば洪水になっても水害とは呼ばれなかったが、家が建てば水害になってしまう。かつては雨が降ると、雨水は田んぼなら約24時間、蓮の生えるような池なら約48時間位の間遊んでいた。しかし、今ではそのような所にも住宅を建てるようになり、そして少しでも雨水が溜まると、住民は「被害が出る」と騒ぐようになった。要は住民にとって、周囲に雨水が少しでも滞留することは許されないことなのだ。今まで許容してきたことが被害になってしまう、その住民意識が都市水害発生の根っこのところにあるといえる。さらに近年では、単に田んぼを潰して住宅を建てるから都市水害が発生する、というシンプルな図式だけではない。田んぼを潰して住宅を建てる時は、水に浸かりたくないから盛土をする。皆が盛土をするから、雨が降ると風呂にたくさんの人が入った時のように水位が上がるというようなことも起こり、盛土をするのを敵視する所さえ出ている。
0465渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 04:50:26.73ID:0+Ki2oSx
埼玉県の気候の特徴

 埼玉県の気候は、太平洋側気候に属します。冬は北西の季節風が強く、晴天の日が多くて空気が乾燥します。夏は日中かなりの高温になり、雷の発生が多く、降ひょうも多いのが特徴です。梅雨と秋霖(しゅうりん)のころは、曇りや雨の日が多く雨季のごとき現象を呈します。台風は襲来するが、強烈なものは少ないといえるでしょう。さらに、地形、海抜などを考慮すれば、北部をはじめとして大部分は内陸性ですが、南部の平地では沿岸の気象特性が加わり、秩父地方の山地では、盆地型の気候や山岳気候が現われています。

https://www.jma-net.go.jp/kumagaya/shosai/chishiki/tokutyou.html
https://www.jma-net.go.jp/kumagaya/shosai/chishiki/hyou.html
0467渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 05:01:51.16ID:0+Ki2oSx
台風の発生数[協定世界時基準](2021年までの確定値と2022年の速報値)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/generation/generation.html
災害をもたらした気象事例(昭和20~63年)
https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/index_1945.html

かぼちゃの大きさの雹(ひょう)について 大正6年(1917年)に降ってきた巨大な雹(ひょう)!
https://www.jma-net.go.jp/kumagaya/shosai/chishiki/hyou.html
これは「A.P.+4.21m 大正6年台風」の高潮被害でここまで浸水したよという記録です。
https://i0.wp.com/rail-to-utopia.net/wp/wp-content/uploads/2018/03/P1030874_s.jpg
https://i0.wp.com/rail-to-utopia.net/wp/wp-content/uploads/2018/03/P1030877_s.jpg
https://rail-to-utopia.net/2018/03/636/amp/
0469渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 05:39:46.51ID:0+Ki2oSx
第14回 台風被害の史料(2)「安政江戸台風」による佐津間村の被害調査


 近代の大正、現代の平成は災害が多発した時代でした。それと同じように、比較的短い期間に大きな災害が続出したのが、江戸時代末期の安政年間(1854年から1860年まで)です。今回は、今から164年前の安政3年8月25日から26日にかけて、江戸を中心に関東地方に甚大な暴風雨被害をもたらした「安政江戸台風」の被害を記した市内の史料を確認できましたので、それを紹介します。なお、当時はいわゆる旧暦を使用していましたので、新暦に換算した場合、西暦1856年9月23日から24日に相当します。

https://www.city.kamagaya.chiba.jp/smph/sisetsu/kyoudo_2/nanisuru/kyodo_oshigoto14.html
0470渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 05:43:43.23ID:0+Ki2oSx
 さて、安政年間の幕開けは、大地震の勃発でした。安政元年(正確には改元前なので嘉永7年)11月4日に「安政東海地震」、翌5日に「安政南海地震」が起こりました。ともにマグニチュード8.4の南海トラフ巨大地震で、それぞれ死者数千名を数えました。実はこの大災害が勃発したため、安政という新しい元号が定められたのでした。しかし、改元にもかかわらず、自然災害が続きました。翌安政2年10月2日、マグニチュード6.9の南関東直下型地震が起こり、江戸を中心に数千人を超える死者がありました(「江戸地震」)。そして、その被害からの復旧・復興が終わらないうちに関東地方を襲ったのがこの台風でした。
 江戸での記録によると、25日の夕方から雨が降りしきり、午後8時ころからは南風が強まり、雷鳴がとどろくようになりました。そして午後10時ころには近年まれな大暴風雨になったということです。翌26日の未明午前4時ころになると風雨がようやく衰え、人が歩くこともできるようになったといいます。さて、この台風は、暴風雨のほか、現在の東京湾岸に最大2.5メートルから3.2メートルにも達する高潮(たかしお)を発生させました。江戸では、深川(ふかがわ)・(以上現江東区)・本所(ほんじょ)(墨田区)・芝(しば)・高輪(たかなわ)(以上現港区)・品川(現品川区)・佃島(つくだじま)(現中央区)などがまるで海のようになってしまったと記録されています。また、現在の千葉県域でも、浦安・市川・船橋の沿岸部が大きな被害を受けました。この状況は、前回ご紹介した大正6年(1917年)の「東京湾台風」に類似しています。
0471渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 05:44:59.06ID:0+Ki2oSx
 現在の研究では、この台風は静岡県伊豆半島付近に上陸し、江戸のすぐ西を通過して、関東地方北部を経て東北地方へ進んだものと推定されています。このコースは、特に南関東にとっては最悪でした。当時は強さや勢力を観測する機器がありませんでしたが、「東京湾台風」や「令和元年東日本台風」に匹敵するものであったことは想像にかたくありません。なお、正確な被害の全容は、史料や記録によって異なっていますが、一説には死者約10万人ともいいます。そのため、史上最悪の風水害被害をもたらしたともいわれています。
0472渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 05:51:08.21ID:0+Ki2oSx
 そのほかに、「大破(たいは)したり屋根や壁などが吹き落ちたりということは家ごとにあります」と書かれていますので、現在でいう半壊や一部損壊の家屋が多数ということになります。また、大宮(おおみや)神社や宝泉院(ほうせんいん)などの村内の寺社境内や林では、合計115本の樹木が吹き倒れたり、吹き折れたりしました。被害を受けた樹種は松や杉が多くみられますが、弁才天(べんざいてん)の境内に生育していた幹周り9尺(約270センチメートル)の榧(かや)の巨木(きょぼく)も倒れてしまいました。
 さらに、作物の被害についても記されています。水田の稲については、早稲(わせ)はすべて吹き倒れてしまいました。一方、晩稲(おくて)については現状では被害は見定めることができないとされています。そして、畑作物については、蕎麦(そば)・大根は収穫が皆無となってしまったようだと歎いています。
 これらの記述を見る限り、この台風は、大正の「東京湾台風」と同じように大変な秋の「風台風」であったことも確認できます。なお、この時田中藩では、下総分領における被害調査を行ったようです。佐津間村など市域を含む南部21村の記録はありませんが、北部21村(柏市北部、流山市など)の合計では、居宅(きょたく)の全壊287軒、半壊168軒、死者8人であったことがわかります(『柏市史年表』)。
 近年、自然災害が多発する傾向にありますが、現代では、大規模な地震と台風の被害が短いスパンで起こったことはありません。しかし、歴史を紐解くとそのような事態があり得ることを教訓とすべきでしょう。
0474渡る世間は名無しばかり垢版2022/07/31(日) 07:23:51.63ID:0+Ki2oSx
 そこで、江戸時代約200年間(1671年~1860年)の暖候期(5月~10月)を対象に、10年ごとの大雨や強風の発生日数を集計して、グラフで示した(下図参照)。雨に関する表現は様々であるが、「大雨」、「雨烈し」、「風雨」、「終日雨」などの記述のみを集計してある。風に関しても、「大風」、「風烈し」、「風雨」、「烈風」など、強風と推定される記述に限定して集計した。

https://jcdp.jp/wp-content/uploads/2019/12/9da95d05cbeb7e833db5708c8b47d9bc-768x739.jpg

 このグラフから、江戸時代の大雨、強風発生に関して次のような特徴が読み取れる。
①江戸時代を通して、年代による変動はあるが、全体として大雨や強風の発生頻度が増加傾向にある。
②大雨と強風の発生頻度には、数十年の周期的変動が認められるが、そのピークは、江戸時代の三大飢饉と呼ばれる「享保の飢饉」(1720年代)、「天明の飢饉」(1780年代)、「天保の飢饉」(1830年代)に対応している。
③大雨が発生しやすい年代には、強風も発生しやすい。これはある意味で当然のことであるが、大雨や強風をもたらす原因の多くが、雷雨や発達した低気圧、台風などにあることを示唆している。
④一般に、江戸時代の大飢饉は、冷夏による凶作が引き金となって引き起こされると言われてきたが、夏季の低温や日照不足に加えて、大雨や強風などの発生頻度が増加することで飢饉を長引かせたとも言えよう。
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