【音楽】汎用実況スレ2024/2/24-【映画】
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丹波哲郎キタ━━━━━━━━m9( ゚∀゚)人(゚∀゚)人(゚∀゚ )9m━━━━━━━━!! 山銀の専務もあのカメラマンと同じ手法で鬼沢にやられたのでしょうね 5億が抜かれてます、
5億を子分で1億づつ、1億を子分に、また子分に、子分に
◯◯系2次団体、3次団体、4次団体、その下部組織に
ねづみ算式に 泣き落しキタ━━━━━━━━m9( ゚∀゚)人(゚∀゚)人(゚∀゚ )9m━━━━━━━━!! 三國連太郎「ほえー、政インターナショナルみたいに」 暴力行為の北青鵬「ロールスロイス」問題がネット話題 何があった? 協会「まったく反省の態度が認められない」 デイリースポーツ 2024/02/23 19:15
暴力行為の北青鵬「ロールスロイス」問題がネット話題 何があった? 協会「まったく反省の態度が認められない」
日本相撲協会が23日、後輩力士に暴力行為を働いていた北青鵬の引退届を受理したことを発表し、宮城野親方(元横綱白鵬)に2階級降格と減俸3カ月20%の処分を課すことを決めた。
ネット上では北青鵬を巡り「ロールスロイスで場所入り」も問題視されていることが話題に。
「ロールスロイスでの場所入りは駄目なの?」「ロールスロイスはべつによくない?」との疑問も。 >>46 日本相撲協会は発表で、暴力行為が問題となった北青鵬について
「令和5年12月23日に行われた協議の場において、(被害者の)Aの両親から、関取として宮城野部屋の所属力士らに模範を示すよう注意を受けていたにもかかわらず、その矢先である令和6年一月場所中には、
以前にも宮城野から同様のことで注意を受けていたにもかかわらず、ロールスロイスで場所入りをするなど、まったく反省の態度が認められない。
このため、被害者であるA及びBの被害感情は非常に強く…」と記されている。 津川雅彦(国税庁)「あんたもコマの一つに過ぎなかったんだよ」 杉山清貴さんは年取ってますます声は出てるし上手くなってます
ビックリ うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお >>31
樋口広太郎(3)実力会長・磯田氏と対立 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO12147250W7A120C1000000/
樋口広太郎(3)実力会長・磯田氏と対立 住銀を飛び出す 樋口広太郎2017年2月2日 5:40 住銀を飛び出す 磯田氏への直言裏目 安定企業をけりアサヒに 住友銀行の副頭取からアサヒビールへの転出が決まった時、父は病床についていおり、すでに病状はかなり悪くなっていました。
「今度、アサヒビールに行くことになったよ」と話したら、「住友銀行に長年お世話になった分を、アサヒビールでお返ししなければいけないぞ」と、昔かたぎの律儀な性格をそのままに、私を励ましてくれました。
父が亡くなったのは、それから間もない1986年2月5日。京都の病院に夜遅く駆けつけると、もうすでに父の意識は怪しくなりかけていました。しばらく添い寝をすると、静かに息を引き取りました。幼いころから私に言い続けてきた「他人様には迷惑をかけるなよ」というのが、父の最後の言葉でした。
副頭取時代、磯田一郎頭取(左)と 当時、住友銀行の実力者は、名実ともに会長の磯田一郎さんでした。
副頭取時代に難しい安宅産業問題を先頭に立って処理したことで一躍有名になった人物です。私は何でもぽんぽん言う性格ですし、銀行での36年間の経験では、意見をどんどん具申するのはいいことだ、という行風でしたからね。
自由闊達に議論して、いったん決まったことについては一丸となって取り組むというのが、住友銀行の本来のあり方だったのです。だから私は磯田さんに対しても、まずいと思うことがあれば遠慮せず、はっきり「ノー」と言いました。まさか、それが銀行を出る引き金になろうとは、思いもよりませんでした。 >>60 まず、磯田さんは、関西相互銀行との合併計画を強引に進めようとされました。78年に発表したこの合併計画に、私は役員の中で真っ先に「絶対にやってはいけない」と反対したのです。
まず関西相銀は住友銀行の系列でしたが、向こう側の一部が住銀との合併を喜んでいないという情報が私の耳に届きました。それで私は、これはまずいと思ったんです。
私は、過去に合併を発表しながら失敗に終わったケースについて、15例ほど新聞の切り抜きを持って大阪に乗り込み、関西相銀との合併を担当していた後の頭取、小松康さんに「いま断念すれば、うちは恥をかかずにすみます」と申し上げました。
磯田さんは何が何でも合併をやるつもりでしたから、反対する私をだいぶうるさく思われたようです。結局、関西相銀との合併計画は、相手側の組合や取引先の反対運動が激しくなり、流れてしまいました。
磯田さんとの関係を決定的なものにしたのは、イトマンへのある融資をめぐる意見の食い違いでした。イトマンが手がける石油の取引に大口の融資をするという話が出てきた時、私は担当副頭取として断固反対しました。
イトマンは石油の分野で営業実績がないし、石油関係の専門家もいない。だから、私は会長室へ行って、「この融資の話はおかしい」と指摘したんです。
ところが、それが磯田さんの逆鱗に触れました。「これは銀行の方針だ。そんなに気に入らないのか。君、辞めるつもりか」とまで言うので、私は「自分の考えは変わりません」と答えました。
その時はすぐに辞めろというわけではなく、「邪魔をせずに、静かにしていろ」ということだったのですが、しばらくして、住友関連2社の社長ポストの話が出てきました。
磯田さんに「話をつけてきたから、どちらでも好きな方を選べ」と言われた私は、「どちらもお断りします。
私はアサヒビールに行かせてもらいます」と返事をしました。これにはさすがの磯田さんも、「君、本気か」と驚きました。 >>61 「アサヒは、先行きどうなるかわからん。うちから何人も行っているけれども、うまくいっていないじゃないか」というわけです。
私は生意気にもこう言いました。「順調にいっているところで頑張っても、やりがいがありません」
私はそれまで走り続けてきました。住友銀行の中では一番若く取締役になり、常務、専務、副頭取になるのもスピード記録を作ったほど、仕事に打ち込んできました。
しかし、トップとの意思の疎通がうまくいかなくなると、職場の空気は微妙に変わるものです。その辺りの変化を私は感じていたので、銀行を辞める覚悟はできていました。
日ごろ尊敬している元頭取の堀田庄三さんと伊部恭之助さんにも相談して、辞任の覚悟を申し上げていました。
当時のアサヒの社長は、私の長年の上司で大変縁の深い元副頭取の村井勉さんです。
進退の相談にうかがった私の話を聞いて、村井さんは「よし、樋口くん。力を合わせてやろうや。私も残るよ」と言ってくださいました。
アサヒビールは、村井さんも私も若いころに担当したことがある、思い出深い会社でした。「この会社には底力がある。こんなもんじゃないだろう」と思っていました。
アサヒビールで昔から私を知っている人は少なくなっていましたが、私はやる気満々で、誰も連れずに一人で飛び込みました。
この連載は、2001年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および新聞連載に加筆して出版された本「樋口廣太郎 わが経営と人生 ―私の履歴書―」を再掲したものです。2013年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。 >>62 樋口広太郎(2)アサヒ初出勤の日 土地売却に「ノー」宣言 樋口広太郎 2017年1月30日 5:40 アサヒ初出勤 土地売却、ひっくり返す 社長就任、経営再建に闘志
私がアサヒビールに初出勤したのは1986年(昭和61年)1月7日です。次期社長に内定していましたが、正式に就任するまでの3カ月は顧問ということになっていました。
その前の年に、アサヒビールのシェアは過去最低の9.6%まで落ち込んでいて、聞きしにまさる窮状でした。
吾妻橋工場の横には、小さなビアホールがあった(1970年代) その日、初めての会議では端の方に座っていました。議題は、大部分をすでに売却した東京の吾妻橋工場の角にまだ残っていたビヤホールの土地、約1300平方メートルを売却するという件でした。
工場本体はすでに売ってしまったのですが、その代金は社員の給料などで1年半で食いつぶしてしまっていたので、おカネがない。だから全員賛成です。
しょうがないのかなと思いましたが、「ちょっと待ってください。本件の決済日と受け渡し日はいつですか」と尋ねました。すると、決済日は3月31日で、受け渡し日が4月2日だという答えが返ってきました。
待てよ。私が社長に就任するのは3月28日だから、私の初仕事は資産売却になってしまう。冗談ではない ,私は即座に反対しました。
「東京や大阪の資産をこの数年であらかた売ってしまって、そのうえシンボルの吾妻橋まで全部売ってしまったら、会社のイメージがさらに落ちる。当面のおカネは私がなんとかするから、この話だけは勘弁してくれ」と頑張って、ようやく売却を中止させました。
そのくらいの気概がなかったら、とてもやれませんでした。 >>63 後日、社員全員から定期的にもらった手紙を読んで、売却をストップさせてよかったと改めて思いました。
「いちばん悔しかったことは吾妻橋工場の売却で、一番うれしかったのはその跡地を買い戻して本部ビルを建設したことだ」という意見が圧倒的に多かったからです。
これ以上、会社の資産は売らないぞという決意を示すことが、社員の士気に与えた影響は大きかったと思います。
住友銀行で同期だったアサヒビールの当時の筆頭専務が、好意からこんな忠告をしてくれました。
「樋口くん、ここは大変だぞ、やめとけ。再建は難しい。ちょうど僕のおじさんが病院をやっているから、しばらくそこに入ったらどうだ。3カ月も入院していれば、この人事は取り消しになるよ」
アサヒビールで経理の神様といわれて、銀行時代から付き合いのあった生え抜きの専務も、気の毒そうに話してくれました。
「樋口さん、みんな歯を食いしばって頑張っているが、もうどうにもならない。売るべきものは売り尽くした。有効な手立てもありません」
しかし、こういう話を聞いて、私は逆にファイトが余計湧いてきました。よーし、ここでとことんやったろう、とね。
メーンバンクの住友銀行は株主としては第3位でしたが、アサヒビールからの要請を受けて、それまでに3代続けて社長を送り込んでいました。しかし私が入る前には、もうそれどころの状態ではないと判断していました。
この1年半ほど前のこと、住友銀行の磯田一郎会長が、当時サントリーの社長だった佐治敬三さんに、業務提携の話を持ちかけたことがありました。
このとき佐治さんは「水に落ちた犬に棒を差し出すのは無謀だ」という喩え話をして、やんわり断ったそうです。 >>64 かつてトップメーカーだったアサヒビールはずるずるとシェアを落として、当時は業界3位にまで転落し、
4位のサントリーに肩を並べられるありさまでした。
サントリーが60年代にビールに進出するときに、お人よしにも特約店網を開放したんです。案の定、シェアを食われました。後から「あれは失敗だった」といくら嘆いてみても始まりません。
私が初出勤した東京・京橋の当時の本社には、顧問の私には部屋がありませんでした。
なにしろ役員全員が大部屋に入っていたんですから。応接間も、小さい一部屋をみんなで共同で使っていました。車にしても買うおカネがないので、「すみませんが、住友銀行からしばらく借りておいてもらえませんか」と言われて、実際に1年ほど借りていました。もっとも、私はあちこち走り回ってイスを温める暇もなかったので、部屋がなくてもいっこうに気にはなりませんでしたが。
社長就任までの3カ月間、私は住友銀行の副頭取のままアサヒビールの顧問だったので、浪人をした時期はなかったんです。
しかし、アサヒの仕事に専念するために、銀行には一度も顔を出しませんでした。役職員の熱気が日に日に高まっているのを感じていたからです。
そして、なにより私にも意地があったのです。目鼻が付くまでは、決して銀行には行くまいと。 >>68 >>69
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