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1978年(昭和53年)6月24日未明、北九州市小倉北区の宿泊先「ホテルニュー田川(現・アートホテル小倉ニュータガワ)」の客室トイレで大量に吐血し、
瀕死の状態だったところをホテルで食事をとっていて遅れたマネージャー美山淳に発見される。
同市戸畑区の健和総合病院(現・戸畑けんわ病院)に救急搬送されるも、既に血液の1/3が失われていた。
その後一時は意識が回復し、憔悴する美山に「馬鹿野郎、俺は死なねーよ」と話しかけるなど小康状態を見せるが、
既に内臓のあちこちから出血がみられ、実質的には手がつけられない状況だった。
それでも水原は歌を諦めず、再度「奇跡のカムバック」を目指していたという。

だが水原の願いは届かぬまま、再び意識不明の重体に陥り、
吐血から11日後の同年7月5日未明、同院で肝硬変の重症化による食道静脈瘤破裂のため死去。
満42歳没(享年43)。
残った借金は当時の額で9000万円とも言われる。