>>425 >>353 則頼の子豊氏は、渡瀬詮繁の家老を務めていたが、詮繁が文禄四年(1595)関白秀次の事件に連座し、改易処分となったことにより、
詮繁の所領であった横須賀城と三万石は有馬豊氏にそのまま安堵された。
同時に渡瀬氏の家臣もすべて有馬豊氏につき、形としては秀次事件に連座した詮繁のあとを、そっくりそのまま有馬豊氏が継いだことになった。
 有馬豊氏はその後、秀吉に直仕し、秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いには東軍に属して出陣した。そして、戦後、丹波福知山六万一千石となり福知山城に住した。慶長七年には、父・則頼の遺領を併せて八万石の大名となった。
 子の代には摂津領を加えて八万石を食んだ。さらに、大阪の陣には両度とも参陣し、夏の陣では首級五十七を獲っている。元和六年(1620)九州へ移封、一躍二十一万石の大名となり、久留米城に住して、子孫襲封して明治維新に至った。この運の良さは何だろう。