>>628 中村は幅広い人脈を持っていたため、財界人から華族まで富裕層が土地を購入、別荘を建てた。大隈重信や犬養毅夫人も苦楽園へ足を運んだが、その当時の写真が残っている。
竹の棒に籐椅子をくくりつけた神輿のような篭に乗って山を登ってきたようで、移動は大変だったと想像される。その篭を担いでいる男たちのハッピには「苦楽園温泉」と記されている。
 この「苦楽園」という名称は、瓢箪の名前に由来している。開発者の中村伊三郎は、家宝としてある瓢箪を大切に所有していた。この瓢箪の名こそ「苦楽瓢」で、そこから苦楽園と命名したという。
この瓢箪は三条実美卿や土方久元伯ゆかりのもので、文久3年(1863)の七卿落ち(尊王攘夷派の7人の公家が京都から追放され長州藩へ落ち延びた事件)の際に死を覚悟してこれで別れの杯を交わしたが、
後に無事で会うことができたことから苦の後に楽ありで「苦楽瓢」と名付けられたという。
阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たすように。歴史に名を刻む文人墨客もこの地を訪ねた。谷崎潤一郎が関東大震災から逃れて関西で初めて身を寄せたのは苦楽園で、