>>547 一条氏の終焉 一条氏の家督とはいえ、内政の実態は長宗我部元親のロボットに過ぎなかった。その後、内政は大津城に移され「大津御所」と尊称されたものの、次第に元親への敵愾心を燃やすようになった。そのようなおりの天正八年(1580)、高岡郡波川の波川玄蕃の謀叛が発覚し、内政はこれに加担したとして伊予に追放されほどなく病死したという。
 内政のあとは政親が継いだが、すでに何の権限もなく命脈を保つばかりの存在であった。やがて、慶長四年(1599)に元親が死去し、翌年の「関ヶ原の合戦」で長宗我部氏が没落したことで、自由の身となった政親は、土佐を去って京に上ったと伝えられるが明確なことは分からない。いずれにしろ、政親が土佐を去ったことで、土佐一条氏は終焉を迎えたといえよう。