1 光る君へ   
一条氏●下り藤  ●藤原北家道長流
 土佐一条氏は、飛騨の姉小路氏・伊勢の北畠氏とともに、公家の戦国大名化したものとして、「三国司」の一人に数えられる。   応仁元年(1467)「応仁の乱」が起り、京都市中が戦場となると、公家や僧侶たちは安全な場所を求めて京から逃れていった。室町時代に「当代一の学才」といわれ、関白・太政大臣にまでなった一条兼良の一家も例外ではなかった。一条氏は藤原北家の流れで、近衛・鷹司・九条・二条氏と並んで五摂家の一つに数えられる名門であった。
 一条兼良はまず子の厳宝が院主である九条随心院へ逃れ、さらに厳宝の兄尋尊が院主の南都大乗院へと避難していった。そして、応仁二年、兼良の子教房は土佐の幡多庄へ、教房の嫡男政房は摂津の福原庄へ旅立っていった。これは、乱世のなかで苦しくなった一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっている荘園を回復して、その実績を挙げようとしたものであった。