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そのちょうど1年後、一時帰国した劉仁軌がこの列島の占領状況を皇帝に報告した言葉が資治通鑑に残されています。「陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえともに影響しあっています。もしも守備兵を配置しなければ、ここはもとの一国に戻ってしまいます」と、高句麗征服のためにこの列島を支配し続けていたことが述べられています。

663年11月18日、旧暦の10月10日、当時の出雲王朝の人々はことごとく惨殺され、また多くの人々が東北に逃れていきました。ですから、出雲弁と津軽弁のイントネーションは共通しています。そして、今に至るまで、当時の亡くなった人々の弔いが執り行われています。それが、毎年旧暦の10月10日出雲の稲佐の浜で夜7時から執り行われる神迎えの神事に始まる「神在祭」です。

その後、唐王朝による支配体制が完成し、それが701年の大宝律令です。それと同時に、天皇を頂点とする身分制度が導入されます。これ以降、日本の人々は唐王朝による殖民地支配下に置かれます。すなわち、唐王朝からすれば、天皇とはこの日本征服の象徴だったのです。