「昭和38年ごろから,全国的な運動と相俟って,住民組織による緑化運動が活発になってきた.」や「同年地区PTAの指導のもとに,青空子供会は,18・19号棟の屋上に<青空農園>を作った.植土を高浜や香焼島から運搬し,子供たち自身の手により夏には,トマト,キュウリ,ナスも実り,秋には稲を収穫できた.」の記載があります。
 しかし、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、622頁>には、「屋上庭園という,作物の生育に最悪の条件,潮風の悪影響などから農園を守るために並々ならぬ努力が払われたにもかかわらず,2回の収穫が限度であった.」の記載もあり,日給屋上の<青空農園>は短命だったようです。