連日連夜の会議で『絶対に大賞を逃すな』と説法されるのですから、必死にならざるを得ません。不眠不休で駆け回りました。
しかも当時は審査員が今の2、3倍はいまし
た。現場のわれわれには票の行方なんて分かりませんでした」

田中は審査員の元を大みそかまで駆け回った。

明菜は、デビュー年の「新人賞レース」では選考から漏れた。
翌年(83年)の「レコ大」では「ゴールデン・アイドル特別賞(TBS賞)」、さらに84年には「最優秀スター賞」を受賞したが「いずれも大賞の本筋からは外れたものだった」(音楽関係者)。
それだけにデビュー以来、明菜の制作と宣伝を統括していた寺林にとっては意地のようなものがあった。