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周辺諸侯を震え上がらせた政宗の撫で斬り

後に東北の雄となる伊達政宗が、父輝宗から家督を相続したのは弱冠18歳の時であった。天正12年(1584)、輝宗もまだ41歳の働き盛りの頃である。

これだけ早い家督相続には理由があった。ひとつは政宗の母である義姫に、政宗弟の竺丸を次期当主に据えようとする動きがあり、これを抑えるためであり、さらには、当時の伊達氏を取り巻く状況にもその訳があった。

陸奥・出羽を制するには、白河から岩瀬・安積・安達、信夫を経て仙台へと続く長大な仙道地方を制覇することが必須であったが、この頃の仙道、特に南奥州の各地では、蘆名・二階堂・結城・岩城・石川・白川らの諸氏が割拠し、伊達氏の南進を阻んでいた。これらの勢力との対決を考えると、情勢が安定しているうちに家督移譲を行い、輝宗の後援の下、家中一丸となって戦う体制を構築する必要があったのである。
https://ameblo.jp/cmeg/entry-11458496313.html

しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった[注釈 1]。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%89%8B%E6%A3%AE%E5%9F%8E