>>708宮崎勇は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評する[37]。
三四一空飛行隊長だった岩本邦雄や二〇一空搭乗員だった笠井智一は、紫電はF6Fには手も足も出なかったという[38]。
初めて紫電を見た笠井は、紫電がF4Fと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという[39]。
1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた[40]。
また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明[51]。最大速度は11.1〜24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった[51]。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する[51]。
1944年(昭和19年)度中に試作機をふくめて67機が生産された[51]。1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)紫電改」が誕生した。