1948年(昭和23年) - 長野県庁庁舎一部焼失をきっかけに分県論が勃発。県議会で採決されるも議場を埋め尽くした県民の「信濃の国」大合唱により流会(とする説があるが、事実ではない)、結局否決される。
これがのちの県歌制定の素地となる。
ただし、仮に可決されても国(内閣)や国会は分県を認めない方針であったという[20]。