明治時代に入ると、南朝が正統な王朝とされるようになったことから、南朝を助けた楠木正成が神格化され、その息子である楠木正行も「小楠公」として崇拝されるようになった。正行が没した四條畷の戦いの故地で、正行の墓(小楠公御墓所)もあるこの地に、楠木氏を祀る神社を設けようとする機運が高まった結果、1890年(明治23年)、飯盛山山麓に別格官幣社・四條畷神社が創建された。
1895年には浪速鉄道が四条畷駅まで延伸し、この地は人の集まる繁華な町へと一躍発展した。北河内地区に中学が開設されるにあたっては、忠君愛国教育の中心である四條畷神社があり、鉄道駅もあって交通の便利なこの地に四条畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)が開校し、北河内の教育の中心となった。この地は1889年の町村制施行の際に甲可村となったが、次第に四條畷の名の方が通りがよくなり、1932年には甲可村は四條畷村へと改名した。
第二次世界大戦以降は「住宅都市」を目標とし、1955年頃から大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進み、大阪外環状線の開通・JR片町線が四条畷駅まで複線化され、都市化が進んだ。
その結果、1970年7月1日に市制を施行するにまで至った。市制施行後は、田原地区が関西文化学術研究都市に指定されると、それに則った開発が進められ、田原台などの新興住宅地が誕生した[1][2][3][4][5][6][7][7]。