尾去沢銅山事件
江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)という。