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第二次世界大戦中の原爆開発計画であるマンハッタン計画に参加したことを通じて、核エネルギーをもつ戦後世界においては科学者が積極的な社会的責任を負い果たさねばならなくなったことを認識したシカゴ大学などの科学者らは、戦後『シカゴ原子力科学者』と呼ばれる会を組織し、その会報『原子力科学者会報』において核エネルギー管理や軍拡競争の阻止、平和の維持の方法などについて議論した。

共同主任編集者であった物理学者ハイマン・ゴールドスミスは、1947年、新たに雑誌の装丁となった会報の表紙絵を芸術家マーティル・ラングズドーフへと依頼した。

物理学者の夫を持つラングズドーフは、一触即発のバランスの上に立った冷戦の時代を迎えて、核戦争という文明の危機と向かい合ったこれら科学者の切迫した危機感をわかりやすく人々へと伝える必要性を認識し、アナログ時計の針として科学者からの見解を視覚的に訴えるアイデアを考案した。

開始時に時計が7分前に設定されたのは、ラングズドーフにとって「見た目がよさそうだった」からという理由に過ぎなかった。

こうして終末時計が、日本への原子爆弾投下から2年後、冷戦時代初期の1947年にこの雑誌の表紙絵として誕生した。