>>321
その本にはこんなことが書かれている。

「江戸時代の初期、神泉谷、現在の神泉町は、俗に隠亡谷と呼ばれていた。地獄橋という橋もあったというが、この辺りには川はないので、多分用水にかけた小橋だったのだろう。寛永年間、この辺りに稲荷を開こうとした村人たちが土を掘ってみると、夥しい数の人骨が出てきた。実をいうと、この土地はその昔、火葬場だったのだ。彼らは人骨の供養のため、坂上の三辻に地蔵をたてた。」