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寛永2年(1625年)1月11日、第3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐などに55万石で封じられ、駿府藩が再び成立した。
忠長は将軍後継を廻って兄、家光と争った経緯から家光とは不仲であり
さらに寛永7年(1630年)には浅間神社の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年(1631年)には家臣や侍女・領民らを惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから
5月29日に発狂したとして上野高崎藩に蟄居の身となり、父の徳川秀忠没後の寛永9年(1632年)10月20日には兄によって改易された。
この時、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年(1633年)12月6日、忠長は高崎で自害した。

忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は幕府直轄領として幕府直属の旗本が駿府城代として赴任する駿河城番時代が続いた。

とのこと