0001渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 21:36:38.12ID:CxWUHrub0
みたに
0431渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:18:52.29ID:FsWtwVe6
しがみつきたいよう衆議院議員だもーん
0432渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:18:53.69ID:x8eV7Mir
国会が開かれていなくてもわざわざ姿を表さないと文句を言われるなんて国会議員は大変だな
18歳は大人なんだから売春したっていいんだろ
なにいちいち騒いでんだよ
0436渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:19:18.17ID:FsWtwVe6
お誘いきたああああああああああああ
まさかこんなぱぱかつのやつも統一教会が応援したのかな
0438渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:19:37.53ID:FsQiaoZR
違うのか
0439渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:19:42.47ID:wbXArnvJ
0446渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:21:53.08ID:FsWtwVe6
無駄に時間使っておねいさんのまた来週なしかよふざけんな
0452渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:24:24.80ID:wbXArnvJ
0456渡る世間は名無しばかり2022/07/30(土) 23:26:53.11ID:wbXArnvJ
0458渡る世間は名無しばかり2022/07/31(日) 00:57:12.25ID:va4yKOFx
>>182
統一教会の日本破壊、国民困窮化の教義の通りに、
韓国カルトと一体化した自民が悪政をやって、国を壊し国民を貧困化させ苦しめてきた
関係ないどころか、全ての元凶が自民と統一教会だよ 0459渡る世間は名無しばかり2022/07/31(日) 03:27:29.77ID:ir3ydeQG
オウムよりたちが悪い
1つは洪水という自然現象、もう1つは水害という社会現象についてである。都市水害と称されるからには、洪水にどのような変化が認められるのか、そして水害の内容がどんな変貌を見せているのか、ということになる。洪水でいえば、量より質、つまり洪水の期間に流れる全量の変化より、ピーク時の流量だけが極端に大きくなってくることである。水害ということでいえば、従来は水害にならなかった洪水氾濫でも水害になってしまうということである。 都市が造られると、それに伴って道路が整備され、その道路には側溝が造られる。当然、住宅には雨どいが作られ、できるだけ早く川に雨水を流そうとするようになる。そのため降る雨の量が昔と変わらなくても、降った雨が川に到達する時間は飛躍的に短縮されることになる。
また、水田であれば洪水になっても水害とは呼ばれなかったが、家が建てば水害になってしまう。かつては雨が降ると、雨水は田んぼなら約24時間、蓮の生えるような池なら約48時間位の間遊んでいた。しかし、今ではそのような所にも住宅を建てるようになり、そして少しでも雨水が溜まると、住民は「被害が出る」と騒ぐようになった。要は住民にとって、周囲に雨水が少しでも滞留することは許されないことなのだ。今まで許容してきたことが被害になってしまう、その住民意識が都市水害発生の根っこのところにあるといえる。さらに近年では、単に田んぼを潰して住宅を建てるから都市水害が発生する、というシンプルな図式だけではない。田んぼを潰して住宅を建てる時は、水に浸かりたくないから盛土をする。皆が盛土をするから、雨が降ると風呂にたくさんの人が入った時のように水位が上がるというようなことも起こり、盛土をするのを敵視する所さえ出ている。
さて、安政年間の幕開けは、大地震の勃発でした。安政元年(正確には改元前なので嘉永7年)11月4日に「安政東海地震」、翌5日に「安政南海地震」が起こりました。ともにマグニチュード8.4の南海トラフ巨大地震で、それぞれ死者数千名を数えました。実はこの大災害が勃発したため、安政という新しい元号が定められたのでした。しかし、改元にもかかわらず、自然災害が続きました。翌安政2年10月2日、マグニチュード6.9の南関東直下型地震が起こり、江戸を中心に数千人を超える死者がありました(「江戸地震」)。そして、その被害からの復旧・復興が終わらないうちに関東地方を襲ったのがこの台風でした。
江戸での記録によると、25日の夕方から雨が降りしきり、午後8時ころからは南風が強まり、雷鳴がとどろくようになりました。そして午後10時ころには近年まれな大暴風雨になったということです。翌26日の未明午前4時ころになると風雨がようやく衰え、人が歩くこともできるようになったといいます。さて、この台風は、暴風雨のほか、現在の東京湾岸に最大2.5メートルから3.2メートルにも達する高潮(たかしお)を発生させました。江戸では、深川(ふかがわ)・(以上現江東区)・本所(ほんじょ)(墨田区)・芝(しば)・高輪(たかなわ)(以上現港区)・品川(現品川区)・佃島(つくだじま)(現中央区)などがまるで海のようになってしまったと記録されています。また、現在の千葉県域でも、浦安・市川・船橋の沿岸部が大きな被害を受けました。この状況は、前回ご紹介した大正6年(1917年)の「東京湾台風」に類似しています。
現在の研究では、この台風は静岡県伊豆半島付近に上陸し、江戸のすぐ西を通過して、関東地方北部を経て東北地方へ進んだものと推定されています。このコースは、特に南関東にとっては最悪でした。当時は強さや勢力を観測する機器がありませんでしたが、「東京湾台風」や「令和元年東日本台風」に匹敵するものであったことは想像にかたくありません。なお、正確な被害の全容は、史料や記録によって異なっていますが、一説には死者約10万人ともいいます。そのため、史上最悪の風水害被害をもたらしたともいわれています。
そのほかに、「大破(たいは)したり屋根や壁などが吹き落ちたりということは家ごとにあります」と書かれていますので、現在でいう半壊や一部損壊の家屋が多数ということになります。また、大宮(おおみや)神社や宝泉院(ほうせんいん)などの村内の寺社境内や林では、合計115本の樹木が吹き倒れたり、吹き折れたりしました。被害を受けた樹種は松や杉が多くみられますが、弁才天(べんざいてん)の境内に生育していた幹周り9尺(約270センチメートル)の榧(かや)の巨木(きょぼく)も倒れてしまいました。
さらに、作物の被害についても記されています。水田の稲については、早稲(わせ)はすべて吹き倒れてしまいました。一方、晩稲(おくて)については現状では被害は見定めることができないとされています。そして、畑作物については、蕎麦(そば)・大根は収穫が皆無となってしまったようだと歎いています。
これらの記述を見る限り、この台風は、大正の「東京湾台風」と同じように大変な秋の「風台風」であったことも確認できます。なお、この時田中藩では、下総分領における被害調査を行ったようです。佐津間村など市域を含む南部21村の記録はありませんが、北部21村(柏市北部、流山市など)の合計では、居宅(きょたく)の全壊287軒、半壊168軒、死者8人であったことがわかります(『柏市史年表』)。
近年、自然災害が多発する傾向にありますが、現代では、大規模な地震と台風の被害が短いスパンで起こったことはありません。しかし、歴史を紐解くとそのような事態があり得ることを教訓とすべきでしょう。