0001名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 18:16:13.06ID:0HvzB2hy0
>>136
自分もルーツに鹿児島人いる家系だけど
鹿児島の人ってなんか独特なんだよな >>137
どこも切った張ったで奪い合った奴らの子孫だろ 0146名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:00:35.95ID:R12IkjuSd
マサイ族もスマホを使う時代だぞ
0147名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:00:44.16ID:rsZQT0lN0
みんなウンコ、ウンコ言ってるのに
0148名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:00:49.93ID:vWznkZH40
>>140
日常生活でスマートホンを駆使する観光ビジネスマサイ族 0149名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:00:59.30ID:SDGFEuW9M
琉球は奄美大島を攻めたりして殺してたから平和の島ではない
0150名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:01:06.15ID:IirE45hH0
>>124
「先住民族」
「多様性」
「多文化共生」
「人権」「差別だめ」
いろんな切り口から攻めこまれてんね
蕨市とかやばそう 0151名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:01:22.06ID:vWznkZH40
0152名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:01:58.51ID:IirE45hH0
>>127
アイヌのみでなく
日本人全員禁止されてんのにね
やたら「明治政府」「民族」連呼してたな 0154名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:03:12.30ID:IirE45hH0
0155名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:03:16.37ID:SDGFEuW9M
西郷輝彦は鹿児島だよな濃いよな
>>149
島津が攻めてきた時本島の奴らを恨んでいたのもあったからあまり抵抗しなかった
八重山とか離島を虐げていたからな 0157名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:03:52.71ID:mDtObpMy0
0158名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:04:41.07ID:IirE45hH0
>>138
「話し合え!!」と叫びながら
ゲバ棒振り回すわけよ 0160名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:05:23.12ID:vWznkZH40
0162名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:06:25.18ID:IirE45hH0
>>149
チャイナと日本、両方にいい顔しながらコウモリやってたんでしょ
よく言われるような
単なる暴力の被害者とか
ただひたすらにかわいそうな民族…てのとは違うと思うんだよな 0164名無しさんにズームイン!2023/07/02(日) 19:08:44.34ID:SDGFEuW9M
>>160
西郷は辺見えみりの親父だから知ってる
あおい輝彦は記憶が曖昧
当方昭和41生まれ >>149
●首里城にきたペリー
那覇港にてい泊する「黒船」,サスケハナ号。写真提供:沖縄県立博物館。
那覇に入港したペリー艦隊は,琉球との和親・通商をもとめました。首里王府は,琉球が小さな島国で,貿易をするほどの資源をもちあわせてないとして,これをことわろうとしました。しかし,ことはそう簡単には運びませんでした。
ペリーは来航して10日ほどすると,王府の抵抗をおしきり,総勢200人以上の兵隊や軍楽隊をひきいて首里城を訪問しました。
国王は母親の病気を理由に面会をさけましたが,柔軟(じゅうなん)な対応を主張した通訳の板良敷親雲上(いたらしきぺーちん=牧志朝忠)らのはからいで,ペリーは城内にはいり王府側と交流しました。
アメリカは,琉球が日本の支配下にあることをよく知っていて,日本との交渉が失敗した場合は,琉球を占領する計画でした。
https://sora.5ch.net/test/read.cgi/livetbs/1686990748/311- ウェンペ
アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[11]。
地域差
地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。
時代別の呼ばれ方
大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[12])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。
アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原氏ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[13]。
蝦夷
朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。
古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)[4] と歌われたこと、蘇我蝦夷、小野毛人、佐伯今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている[5]。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7 アイヌの人々の家族構成
アイヌ民族の家族は、一つの家屋に一組の夫婦と子供たちが住み、子が成長するにつれ、新たに家を建てて分かれていくことが多かった。かつては、娘が婚期に達すると、地続きに小さな家を造って一人住まいをさせ、求婚に訪れる青年の中から両方の気の合う者を選んで婚姻が成立するという習慣もあった。この場合、青年がそのまま残ることもあるし、娘の家の仕事をある期間手伝った後、娘を連れて自分の家に帰ることもあった。長男は両親の家の近くに新しい家を造り、両親の面倒を見ると共に父系の財産を継いだ。妻が死ぬとその家を焼き、夫は再婚するまで近親の家などに住んで家を持たなかった。そのことから、妻を失った男を「家のない男」といった。
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/digest/4_syou.html アイヌ民族を構成する単位は個人ある。夫婦関係にしても、一方の死や離婚によってその関係は消滅する。親子の関係は、父と息子、母と娘の関係が強調されている。同じ両親から生まれた兄弟姉妹関係においてもアイヌの人々は男女の区別が強く、兄弟と姉妹との関係は分離され、兄弟同士、姉妹同士の関係が強調される。その関係は子や孫にまで適応され、親族の結合の基礎をなした。そのため、男女を含む家族や氏族のような社会集団を単位とする名称は存在していない。
式亭三馬(しきていさんば)の『浮世床(うきよどこ)』には、どてらを着て懐(ふところ)に赤ん坊を入れてあやしている男性が出てきますが、その様子は、とても手慣れた感じです。江戸では少しも恥ずかしいことではありません。
家事育児は、手の空いた方がするのが当たり前で、江戸では、男性に付加価値がないと妻をもらえません。料理が上手、マッサージが上手など、何か一芸に秀(ひい)でていないといけないのです。
(杉浦日向子監修『お江戸でござる』)
https://pankisa.ti-da.net/a11673087.html 農民の暮らしについては、皆さんの回答にもあるように、本作品で描かれているような壮絶な貧困や圧政・迫害が日常であったというわけではありません。
食糧生産手段としての農業から、商品作物を栽培するほど農民社会へも経済のメカニズムは導入されるようになっていました。
たしかに、かつてないほど長く安定した政権の下での封建社会においては、生活や風俗を統制しようという動きがあることは事実ですが、史実としてみれば描かれている話が極端すぎます。
話は少しそれますが、白土三平氏の父は社会主義運動家であり、白土氏も根本的思想としてマルクス主義を持っていらっしゃるようです。
これは、氏のもう一つの代表作である忍者武芸帳も同様、カムイ伝もマルクス主義でいう唯物史観論をベースに物語が展開されていることからも明らかで、「貧困や権力者の圧政はすべて階級社会・封建社会のもたらす悪が根源である」として描かれています。
つまり、絶対的権力者である武士に搾取され苦しめ続けられている最下層の貧困層である農民や被差別部落民の存在…という構図が前提としてありきであって、白土氏の志向するマルクス主義にとってはこの前提がないと話が始まらないし、訴えるものもなくなってしまうのです。
まカムイ伝を連載するために創刊された漫画雑誌ガロ自体が、社会主義を志向する当時の学生運動をベースとした文化に支えられており、【権力者と圧政に苦しむ庶民・下層階級】を必要以上に強調し続けることによって、読者を惹きつけ続けようとしたことは事実で、その内容は史実とは全く異なるものと解すべきかと思います。
たしかに、社会の最下層にあって苦しむ庶民からの視点で、当時の世相や風俗を見る、という構成そのものは、よく描かれた作品であることには間違いなく、作品としての評価とは別の問題ではあるのですが、当時の文化・知識人を自称する左翼思想家や、全共闘運動などを経て教師になった人たちに必要以上に絶賛され、あたかもこれが史実であるかのように「権力者というのは常に庶民からあらゆるものを搾取し続ける存在である」という思想を子供たちに植え付けたい人たちの役に立ったことはたしかでしょう。
あくまでフィクションの漫画としてとらえるべきかと思います。
天領(徳川家の領地)に住んでいた農民と、古来から変わらない領主に支配されていた農民ではかなり違いがあったようですが、カムイ伝にあるような、溶けた鉛を飲んで自殺、 みたいな凄いことは、いくらなんでも無かったと思います。
ただ、不作続きで土を食べたというのは東北地方で実例があります。
カムイ伝はご存知だと思いますが、学生運動華やかりし頃の漫画で、 あの時代の雰囲気と相互干渉がある内容です。
白土氏がどれだけ調べて描いていたのかは知りませんが、 虐げられている人々 VS 権力者 という構造を強調するために演出されているシーンは多いでしょうね。
多くの日本人が子供の頃から白土三平の漫画を呼んでいるだけに、当時の様子として描かれた事が心の深層に刻まれていると思います。
実際には農民が庶民が圧政に苦しんだようなことはほとんどありません。
戦国時代の戦も庶民や農民の居住区から遠くはなれた無人区で行われていますし、城自体が庶民の居住区から離れた場所に築かれているように、農民や庶民が戦の巻き添えに遭うこともありませんでした。戦も毎年行われていた訳でもなく、経済を優先していたので戦国時代と言っても経済は発展するほど庶民の生活は平穏だったのです。
江戸時代になると農民は戦に徴用されることもなかったので生活はさらに豊かになり、領主と農民の関係もそれほどぎくしゃくしたものではありませんでした。
白土三平の漫画は権力者の争いを庶民の世界まで持ちこんだところに無理があって、武士は庶民に迷惑をかける行為を極力避けるように気を遣っていたのです。
白土三平 作 『カムイ伝』 に描かれている江戸時代の村の描写のまちがいについて、である。
江戸時代の農民(百姓)は文字を読むことがを禁じられていた、というのは白土氏のフィクションではないだろうか、と私も思う。
<……漫画やテレビで描かれる江戸時代像は、ときどき実態とは正反対に描かれています。/たとえば、白土三平氏の 『カムイ伝』 (小学館文庫) という漫画があります。江戸時代の村の生活を描写したこの作品は、江戸時代の庶民へのまなざしを高めた、とても意義深い作品です。/それでもこの漫画では 「百姓の読書は禁止」 されているという設定で、村に高札を立てても、村で文字を読めるのは庄屋のみである、という場面が設定されています。>
<もちろん、漫画に出てくる高札は、ご存じのように、歴史的に実在し、庶民に領主の命令を知らせるための札です。しかし、もし、漫画の設定にあるように、多くの庶民が文字を知らないのならば、そもそも高札など立てる必要はないはずですし、領主が読み書きを禁じているのならば、なおさらのことです。時代考証の論理というより、漫画の筋書きの中の論理が矛盾しています。>
― 高尾善希 著 『やさしい古文書の読み方』 日本実業出版社(2011年) P.94-95「漫画 『カムイ伝』 の矛盾」 より ―